今、英語圏のネットでは、アメリカのHBOというケーブルテレビ局が制作した「チェルノブイリ」というドラマがかなり話題になっていまして、ドラマとしては相当な傑作だという評判です。
このドラマの日本語版はまだ出回ってないようですが、私のような日本人にとって気になるのは、「チェルノブイリ」のドラマとしての出来よりも、科学的な記述が正確なのか、ということです。
日本では震災の記憶がまだ十分に癒えているとは言えず、特に福島第一原発の事故に関しては、風評被害が大きな問題になっており、原発関連はかなりセンシティブな話題になっているからです。
そんなことを思っていたら、表題の通りの記事を見つけました。著者はポーツマス大学の環境科学の教授であるジム・スミス博士。原発問題の専門家のようで、内容にも信頼がおけそうです。
そこで著者にコンタクトをとってみたら、快く翻訳を許可してくれた上に、翻訳をチェックしてくれる日本人の専門家の方まで紹介していただけました。(だから、翻訳時に科学的正確さが損なわれていることもないはずなので、ご安心ください。)
下の翻訳を読んでいただければわかりますが、「チェルノブイリ」は科学的にあまり正確ではなさそうで、しかも結構重要な点で見過ごせない描写があるようです。
このドラマの日本語版の製作については、メディア関係の偉い人たちが検討しているのかもしれませんが、これだけ科学的正確さに問題があることを考えると、個人的にはお勧めできません。日本人とアメリカ人の原発問題に対するセンシティビティは、特に東北震災以降は、天と地の差があります。いくらアメリカでドラマとして高く評価されようと、このままでは日本では受け入れられないと思います。
もし日本語版が出回らなくても、英語に堪能な方がなんらかの形で英語版を視聴することは止められませんが、ドラマの内容を鵜呑みにしてそれをそのまま日本語で垂れ流すのだけはやめた方がいいでしょう。スミス氏が書いている通り、これは「あくまでドラマであってドキュメンタリーではない」のですから。
「チェルノブイリ」のファクトチェックをした英語記事は他にもたくさんあるので、最後にいくつかリンクをあげておきます。
HBO's 'Chernobyl' Fact vs. Fiction: How Close Does the Miniseries Come to the Real 1986 Nuclear Accident? (Newsweek) 2019日7月10日リンク追加
Why HBO's "Chernobyl" Gets Nuclear So Wrong (Forbes) 2019日7月7日リンク追加
Plenty of Fantasy in HBO’s ‘Chernobyl,’ but the Truth Is Real (New York Times)
HBO’s Chernobyl is a terrific miniseries. Its writer hopes you don’t think it’s the whole truth. (Vox)
Chernobyl survivors assess fact and fiction in TV series (BBC)
2019年6月29日追記:
時事通信の報道によると、スターチャンネルが「チェルノブイリ」の日本での放映権を獲得したようです。9月以降に放送予定だそうです。
個人的には今でもあまり賛成できませんが、日本で放送するとしたら、必ず科学的正確性についての解説をつけてほしいですね。スターチャンネルは町山智浩氏をはじめとして優秀な映画評論家とお付き合いがあるようですから、完璧な解説をつけて、無用な不安を煽るようなことは決してないようにして欲しいです。
この記事は最悪の事態の保険として書いただけで、これが注目を浴びるような事態にはなってほしくないんですけどね。関係者の善処を期待しております。
2019年7月3日追記:
あえてリンクはしませんが、この記事と同じThe Conversationの記事を日本語に翻訳して転載したと称する別のサイトの存在を確認しました。断言しますが、そちらは無断翻訳です。The Conversationのライセンスは、クリエイティブ・コモンズと言ってもCC-BY-NDで、特に無断翻訳は明確に禁止しています。しかも記事を読んだ限りでは、翻訳もおそらく機械翻訳で、たぶん無断で機械翻訳した記事を機械的にアップロードしている悪質な海賊サイトです。
(対照的に当サイトでは、筆者の許諾の下に翻訳し、さらに専門家の方の校閲まで受けています。)
このサイトに対しては、現在著作権侵害の申し立てなどを検討中ですが、逆にこちらが剽窃したと思われては心外なので、事実関係だけはっきりさせておきます。
1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所事故の出来事やその余波を描いたHBO/Sky制作の「チェルノブイリ」シリーズは、視聴者を虜にしました。
筆者は、チェルノブイリ事故の影響に関する国際研究プロジェクトを多数指揮し、チェルノブイリ周辺の立ち入り禁止区域を何十回も訪問してきました。「チェルノブイリ」のセットや小道具や衣装の細部へのこだわりが、ソ連末期の社会にいるような没入感を視聴者に与えたことは、事故を直に体験して記憶している人たちからも、高く評価されています。しかし、中には間違いもありますし、ストーリー展開の中には、物語を劇的にするために作られた面もあります。
1.ヘリコプターの墜落
冒頭で、原子炉の上を飛び越えようとしたヘリコプターが、あたかも強い放射線のせいで墜落したかのような劇的なシーンがありますが、こんなことは実際には起きていません。ですが、そのときにヘリコプターで録画したビデオは、原子炉炉心上空の強い放射線場によって生じた静電気や歪を示しており、またパイロットはこの出撃により放射線障害になったと報じられています。
2.「死の橋」
当局の許しがたい対応の遅れのせいで、プリピャチ市民は事故後に外出し、その中には、火事見物のためより発電所に近い、所謂「死の橋」まで行った人たちもいました。しかし、筆者の知る限り、その橋の上にいた人たちが全員死亡したという証拠はないし、その一帯の放射線が致死線量に近かったという証拠もありません。
3.プリピャチの放射線障害
実際にプリピャチ住民が被ばくした線量は平均で約30ミリシーベルト(mSv)(全身のCTスキャン3回分に相当)でした。これは危険の警告が遅れたせいです。ドラマの中には、地元の病院で放射線障害に苦しむ子どもたちを描いたようなシーンもありますが、専門家によると、消防隊員や発電所の作業員の中には放射線障害の患者が134名いたことが確認されていますが、プリピャチの住民の中からは一人も確認されていません。
4.「あなたは原子炉の隣に座っている」
モスクワ第6病院で急性放射線症に苦しむ消防隊員の夫を、妊娠した妻が訪ねる非常に感動的なシーンがあります。これ自体は実際にあったことで、ノーベル文学賞を受賞したベラルーシのジャーナリストであるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの「チェルノブイリの祈り」から、このドラマに採用された多数の現場の証言の1つです。ですが、このドラマには、胎児が後に死亡するこの夫から高線量の放射線を吸収したかのような描写があります。発電所の作業員や消防隊員の治療を手伝ったアメリカのある医師は、患者から病院職員や見舞客への有意な放射線リスクは存在しなかったと言っています。またチェルノブイリ事故後の研究によれば、放射線被ばくが妊娠結果に影響するという有力なエビデンスは見つかっていません(リンク先の和訳)。
5.原子炉は核爆弾ではない
原子炉炉心のメルトダウンによる2~4メガトンの核爆発が、近隣の都市キエフを破壊し、ヨーロッパの幅広い地域を人の住めない場所にする、という恐怖が喧伝されていましたが、これは間違っていました。原子力発電所は、核爆弾のように爆発するわけではありませんし、メガトン級の熱核爆発など間違いなく起こりません。いずれにせよ、爆発がミンスクを破壊することはなかったでしょうし、ヨーロッパを人の住めない場所にすることもなかったでしょう。
6.潜水夫
核燃料が水に接触すると爆発すると信じられていたので、それを防ぐために、原子炉格納容器の下のタンクから水を抜こうとして働いた勇敢な3人がいましたが、これは無駄でした。その後の分析によれば、このタンクはすでにほとんど空でしたし、溶融燃料が水と接触したら、かえって燃料の冷却を助けたかもしれません。
7.ヘリコプターのパイロット
ヘリコプターのパイロットが、溶融した燃料棒の上にホウ素や砂や鉛を落とすという信じ難い勇敢な試みは、黒鉛減速材の火炎を鎮火するためには役立った可能性が高いですが、その大部分は核燃料や溶融炉心には命中せず、核燃料と溶融炉心は、格納容器を溶かした後で自然に冷却しただけでした。
8.坑夫
炉心の下から熱を逃がすため、原子炉建屋の下にトンネルを掘って熱交換器を設置するために尽力した勇敢な坑夫たちの努力も無駄でした。炉心は熱交換器が設置される前にすでに冷えていたので、熱交換器が使われることはありませんでした。原子炉の下の地下水(湖や河川水系の近くに存在)に放射線物質が入り込むリスクは、上昇してはいましたが、それでも低かったことが明らかになっています。
9.除染作業員
シリーズの最後で画面に表示される余波に関する記述の中では、事故後の除染を行った数十万人の除染作業員に関しては、何の調査も行われていないことが示唆されています。実際には、除染作業員グループに対しては多数の研究が行われており、彼らの間で癌が増えたとは言えないことが実証されています。除染作業により発癌リスクは高まった可能性が大きいですが、そのリスクは、心臓血管性疾患、喫煙、そして旧ソ連諸国全般の問題であるアルコールの過剰摂取のような、彼らが現在直面し今後も直面し続けるであろう他のさまざまな健康リスクに比べれば微々たるものです。
10.失敗
この番組では、科学者たちが英雄として登場します。チェルノブイリの余波の中で、科学者も含めて無数の英雄がいたのは事実ですが、黒鉛減速沸騰軽水圧力管(RBMK)型原子炉の設計上の欠陥、セーフティ・カルチャーの欠如、そしてこのような事故に対する備えの許し難い欠如の責任は、最終的にはソ連の科学界と政治制度にあったといえるでしょう。
教訓
チェルノブイリ災害の影響を過小評価しないことは大事です。研究によれば、甲状腺癌の増加が明らかになっていますが、これは主に、ソ連当局が事故後数週間の間に、半減期の短い放射性物質であるヨウ素131に汚染された生産物の摂取を防ぐことに失敗したせいです。
2015年までの被災者に対する最近の分析によると、甲状腺癌の症例全2万件のうち5千件が放射線由来であることが判明しています。甲状腺癌は重大ですが、幸いなことに、症例の99%は治療可能です。放射線からの直接的な健康影響よりも、何十万もの住民が移住したことの影響、土地を放棄したことによる経済的な影響、(それ自体はもっともな)放射線の恐怖などの悪影響の方が大きい、とする報告もあります。
「チェルノブイリ」シリーズを見ると驚かされますし、事故前後の出来事の再現は卓越しています。でも、これはあくまでドラマであって、ドキュメンタリー(実録)ではない、ということを忘れてはなりません。1986年以降数十年の間に、この事故に関するさまざまな風説が流布し、そのような風説は、間違いなく被災住民の復興を妨げてきたのです。
その復興は、30年以上たった今でも終わっていません。復興がうまくいく可能性があるとすれば、感情やドラマではなく、利用できる最善の科学的エビデンスに基づいて行われなくてはなりません。エビデンスの示すところによれば、事故の際に極端な線量を浴びた発電所の作業員、消防隊員、ヘリコプターのパイロットを除けば、チェルノブイリ事故による放射線のリスクは、私たちの誰もが暮らしの中で直面する他の健康リスクに比べれば微々たるものです。
転載条件表示:この記事は、ポーツマス大学のJim Smith教授がThe Conversationに投稿した英語記事を、著者の許諾の下に日本語に翻訳した上で、同サイトの転載条件にしたがって転載したものです。
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